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 1. 富山県人社の月刊誌「富山県人」令和5年4月号の記事によりますと、2022年度の富山県内の主な高校の主要大

  学への合格状況において、富山高校の実績は下表のとおりとなりました。今後のさらなる健闘が期待されます。



  

    ㈱富山県人社の許諾をいただき、富山県人誌令和5年4月号p.23より引用




 2. 富山高等学校の公式ホームページのリニューアルについて

  富山高校の公式ホームページが最近全面的にリニューアルされました。新たにスマートフォンにも対応しています。

  特にトップページでは、平成29年度入学式が行われた4月10日の早朝にドローンを使用した空撮にて満開の桜を背

  景とした校門付近から見た校舎の情景を撮影した動画が流れます。このような画面は全国的には珍しく、県立高校

  では初となる試みです。スマホで見る場合は、トップ画面の下部にある「校舎空撮」をクリックすれば見られます。

  http://www.toyama-h.tym.ed.jp/


 3. 木村元校長先生より平成29年発行予定の会報への寄稿に併せて、ご自身で撮影された桜花爛漫の母校の

  校門などの画像とともに、下記のメッセージが寄せられました。

  「お世話になっております。同窓会原稿を送付します。顔写真は昨年のものを利用ください。

   こちらは、桜満開の太郎丸での入学式も終え、生徒は元気に学校生活をスタートさせております。

   よろしくお願いします。 木村」

 

 

 



 4. 昭和46年5月発生の旧本校舎が消失した火事の思い出

 【植垣 玉貴会長(85回)からの寄せ書き】


 「高校2年の昭和46年5月23日、まさに1学期中間試験の中休みの日、夜10時頃私は風呂に入っていた。

 外ではウ~ウ~カンカンと消防車がけたたましく走っていた。その時母が風呂場に飛び込んできた。「富山

 高校が火事だと!テレビに出とる!」 すぐにテレビを見た。北日本放送で今まさに炎に包まれた富山高校

 が放映されていた。2階に駆け上がって外を見る。北西の方角に一塊の炎の海が波打っているのが見えた。

 私の実家は山室校下だ。しかし、南からも東からも何処かしこからもサイレンが鳴り響き、そこら中の消防

 車が一気に富山高校に集合している様子がよく分かった。

 翌朝、南富山に降り立つ。町一帯が焦げ臭い。焦げ臭さの中、私たちは被害総額を明らかにする為、学校

 に何をおいていたか調べられた。教科書、体育の服、油絵道具など細かく事情聴取され、帰途についた。

 「明日も登校せよ。」の声に、1週間位休みになるだろうと期待していた私達は裏切られた。

 翌朝唖然としたのは、焼け残った体育館の半分と、剣道場、柔道場、そして農繁期には空になる向かいの

 中央農業高校に机と椅子が人数分綺麗に並べられていることだった。前日本林校長はじめ、全職員が徹

 夜で駆けずり回り、机、椅子、黒板など授業に必要な物を集めたのだという事を知るのはずっと後の事になる。

 1日も休みになることはなく授業はすぐに再開され、苦難の日々。梅雨時期、屋根が半分焼け落ちた体育館

 で吹き込む雨を傘で遮り勉強する姿が北日本新聞に載る。

 2学期にはプレハブ校舎が出来上がったが、あまりの暑さに教室の四角に氷柱が寄付され、また北日本新聞

 に。冬にはオーバーを着たまま授業を受ける反面、ストーブ周りのみ熱くて傘で熱を遮る姿もまた新聞に。

 受験を控えた3年生の竹内、針生さん達84回はそんな中でも一心不乱に勉強したのでしょう。「3年は大学合

 格率が下がらんかった!富山高校生は凄い!」と私達2年生は担任から聞いた。

 そして3年生に進級した私達は1学期が終わりに近付いた7月はじめ、それぞれが自分の机をもって新校舎に

 移った。僅か1年と2か月で新校舎は完成し、そして漸く落ち着いた学校生活が送れる様になった。

 1年生時は避雷針のそびえる旧校舎で、2年生時はプレハブ校舎で、3年生は新校舎で、85回生は高校生生活

 を送りました。
 

【杉木 孝行副会長(86回)からの寄せ書き】

 私が富山高校に入学して間もない1971年(昭和46年)5月23日(日)の夜半に、玄関の上に避雷針のある特徴的

 な搭屋があった木造2階建ての本校舎から出火して、折からの強風に煽られて瞬く間に全焼するという一大事が

 発生した。私は水橋に実家があって「ざいご(在郷)」に住んでいたため火の手までは分からなかったが、市内に

 住んでいる同級生に聞くと、出火後には多くの消防車が町中を走り回り騒然として、赤々と夜空を焦がす煙が見

 えたという。

 火事の直後の翌日には全校生徒が半分焼け残った体育館に集められて本林校長先生の訓示を聞いた。真っ黒

 に焼け落ちた本校舎の変わり果てた状況を息をのんで見た直後なだけに、何とか明日から授業を再開すると校

 長先生から聞いた時にそんなことができるのか?と正直なところ思った。新入生にとっては折しも初めての中間

 試験の最中であったが、試験問題を含めて成績表など重要な書類を持ち出す余裕もなく万事休すの状況であっ

 たと思われた。しかし、当時の先生方の驚異的な奮闘と努力で翌日25日から授業が再開して、程なく残りの中間

 試験も無事行われたと記憶している。

 本校の歴史の中では校舎の消失は実は2回目であり、前回は旧制富山中学校の時代に富山城址に校舎があっ

 た1899年(明治22年)にも富山市内の大火により校舎が全焼し、翌年に現在の富山市太郎丸に新築移転している。

 私は富山高校に理数科が発足して3期目の1年生であったが、類焼を免れた理科館にて授業を受けることができた

 ので率直に言えば恵まれていた方だと思う。普通科の同級生はとりあえず体育館に緊急でこしらえた衝立で仕切ら

 れた教室での授業を受けるなど、焼けていない建物や近くの中央農業高校に分散して教室を確保して勉強した。

 その後急いで建てられたプレハブの仮校舎に移っての授業であったが、夏期に入るとエアコンもない平屋のプレハ

 ブの校舎では室内が蒸しぶろ状態となり、取り急ぎ設置された氷柱や扇風機も役に立たず、正に「焼け石に水」で

 あった。

 私たちは1年生でまだ入試なども先の話で助かった年次であるが、84回の当時の3年生は上記の大変な状況下で

 大学入試が迫っており、受験勉強など本当に大変だったと思う。火事の翌年7月には突貫工事により短期間で新校

 舎が完成して移転することができたが、この間は正に富山高校の底力が発揮された時期ではなかったかと思う。

 この火事に遭ってその後仮校舎などで授業を受けて頑張った経験をした世代は84~86回生であるが、それぞれの

 記憶と思い出の中で不屈の精神の陶冶になったのではないかと今でも当時のことを時折思い出すことがある。

 
                   旧本校舎の佇まい

  
     焼け落ちた本校舎の向こうに見える体育館       

   
                                 本校舎の玄関跡 当時の状況に関する資料は、以下のサイトを参照してみてください。 http://www.toyama-h.tym.ed.jp/wp-content/uploads/2017/03/b032eca7654dfa14b036a6f6f196285d.pdf 5. 72回生(S35年卒)の同期会が平成28年10月17~18日に富山市内にて開催されました。   以下に近畿での世話役をされています小幡 保さんからのご報告です。

 県立富山高校学校 昭和38年卒業72回生の同期会が、平成281017()から18()に、
 富山駅前の「とやま自遊館」で黒沢景壽先生を囲んで100余名で開催されました。同窓会は富山の
 本校を始め各地で開催され ていますが、その際にはゆっくりと旧友との懇談が取れない、また観
 光等も楽しみたいと同期会が企画され始めました。
  古希を契機に富山・関東・中部・関西地区の担当者が企画して、伊豆や岐阜 京都での同期会を開
 催してきま した。75歳に成る本年は 富山での開催の提案があり、クラス単位に世話人が決められ、
 物故者等の動向調査 や開催への参加を募り連絡がされました。この様な大々的な開催は最後との
 感も有り、多くの参加の運びとなりました。まず開催にあたり 全員で黒沢先生を囲んで記念撮影。
 10クラス600余名のなか100名近い物故者が有り、司会者の発声により哀悼の黙とうを捧げさせて頂
 きました。
  88歳に成られた黒澤先生は我々よりも元気な姿で舞台に立たれ、学生時代の思い出や時代背景等に
 ついてご挨拶を頂き、会が開かれました。各地の世話人を代表して関東地区の紺道樹義氏が、学生時
 代の学びと同期会の近況報告をされ乾杯の音頭を取られました。富山地区の東山幸輝氏からは スライ
 ドによる同窓会等の近況報 告がされ、続いて中部地区の渡辺良吉氏・関西地区の小幡 保氏による地
 域の会員の活動と近況等が報告されました。黒田節の演舞も会を盛り上げ、テーブルを囲んでお酒を
 酌み交わし、近況と思い出の話に花が咲き、記念の写真を撮り合い時の経つのも忘れて過ごしました。
 中締めとして富高校歌・富中校歌の斉唱にはわれ先に舞台へ上がり声高々に合唱をしました。

  徳舛周斌氏の万歳三唱で会は締められましたが、会場を移してカラオケと歓談の席が設けられ、9
 過ぎまで時を忘れたかのように賑やかに過ごしました。
18日はいくつかのグループに分かれて、市内
 の観光組・ゴルフ等に繰り出す組として自然解散となりました。

 参加者 名簿
  一組 犬島健一・大石信弘・大久保純也・沖田彰宏・小幡 保・徳舛周斌・林 修一・船田 覚・山本逸三・
     渡辺
勲・渡辺良吉
   
二組 泉 昭雄・井上泰男・大間知孝喜・北川 武・紺道樹義・島 利夫・高岡哲男・武隈哲夫・富田宗哉・
     中田
博・橋場忠義・平井
   三組  大塚弘志・加登 毅・笹倉信義・土井正邦・東山幸輝・廣田新伍・松井哲夫・安井
  四組 大久保通世・奥村紘士・加藤
史・倉田 勝・島 幸子・中嶋 徹・松山信之・森田悦子
  五組 梶尾 剛・竹川恭子・定光 徹・寺島満寿子・服部隆則・本田 勲・山田絋一郎
  六組 荒井紀代・荒川敏子・加藤
進・佐伯 侃・澤田文子・高木久美子・高柳雅子・谷 久義 ・中川貞雄・
     永松妙子・馬場千代子・平井
勲・本田以都子・米嶋淑子
   七組 東 智子・飯野由貴子・牛島睦子・北 信代・澤田清孝・高島慶子・東海紘子栃谷詩子・松野弘之・
     森田紀代実・山口英隆

   八組 音 成明・金岡美彌子・坂田 章・柴田俊二・高橋通泰・種谷寿子・二村豊 陽雄・林 祥子・
     日野比佐子・氷見治代・藤井洋子・藤田恭子・森
忠男・山本正子・吉倉美都子
   九組 小橋啓一・田中雅子・墓田 稔・袴田淳子・林 武子・松岡節子・水野洋子・山城千鶴子
   十組 井村朱実・岩田春美・四宮一子・西森牛早子・村上光子・米田雪子





 6. 植垣会長(
85回)は大学生の若い卒業生の情報を得るために平成28年5月6月に母校へ赴き、木村校長や

  本部同窓会の佐々木様と会談し、母校や本部同窓会との絆が深まっています。その後木村校長先生より

  懐かしく美しい現在の校舎の写真を添えて、メールにて下記のコメントをいただきました。

  「富山高校では、新緑もいっそうあざやかな太郎丸の杜において、生徒たちは、今週末の高校総体に

   向け、放課後、部活動に汗を流しています。」

  この写真を眺めていると、授業中の静寂が終わり放課後の部活が始まる時間になると、体育部の生徒さん達

  の元気な掛け声や吹奏楽部の音などが混じり合った午後の母校の情景が、脳裏に蘇ってくるようです。

  
なお、今回の植垣会長が富山高校を訪問したことは、H28年会報に掲載されました。





 7. 平成27年101日に富山駅北口にあるオーバード・ホールにて、富山高等学校創校130周年‣同窓会

  設立100周年記念式典が挙行されまして、当同窓会からは植垣会長(85)および 中田 一清副

  会長(68)が出席しました。式典ではNHK制作局ドラマ番組部チーフプロデューサーの屋敷 陽太

  郎さん(101)が「モノ作りの楽しみ」のテーマで講演されたほか、著名なサクソフォン奏者であ

  る雲井 雅人さん(88)が自ら主宰するサックス四重奏団による演奏も披露されました。

  その後に行われた祝賀会では、植垣会長、中田副会長は木村校長、犬島同窓会長、西藤東京富中

  富高会長と同席にて懇親を深めました。



   

    式典会場の入口の掲示               オーバード・ホールのエントランス
 
  

           講演中の屋敷さん                     演奏中の雲井雅人サックス四重奏団

以下に平成27年10月1日の北日本新聞朝刊に掲載されました見開き2ページ全面+1面の堂々たる広告の紙面をご紹介します。

当同窓会の広告も、本部同窓会などとともに掲載されました。








 
 
       式典を伝える平成27年10月2日北日本新聞朝刊の記事

       下の写真の中央やや左、同窓会本部犬島会長の左隣に植垣会長の姿も写っています。



  ※ 以上 副会長 杉木 孝行(86回) R5.4.5更新

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